街を見下ろす満天の星

4 食糧問題について

 俺の家は荒らされていた。
 一体何時の間に、と言いたい所ではあったが、既に四日以上まりの家に居たし、患者以外の人間が俺の家に忍び込む事は可能だった筈だ。それで無くとも、物音も聞こえなくなる程、集中せざるを得ない事が有ったのだから。
 唯犯人も持ち切れなかったのだろう、十分とは言えないが衣類を幾らか入手する事が出来た。数日ぶりの自宅は、何故だか他人の家の様に思えた。俺は用を早々に済ませてまりの許へと戻った。
 俺達は食糧の危機に直面していた。一応家に戻った際に一通り見直してはみたが、菓子の一つも見つからなかった。其れまでまりは持ち込んだ食糧も含め巧い具合に管理してくれていたので問題はなかった。比較的長く保たれた方なのだろうと思う。持ち込めた食糧は元々まりの家に有ったものの一割程度だった為、殆どまりに頼って食い繋いでいたと言っていい。俺が食べた所為で、彼女が食べる分が減ってしまったと言うと、彼女はどの道食べきらなければ腐らせてしまっただろうから、却って食べて貰ってよかったと言って、からからと笑った。
 まりはあれから、よく笑うようになっていた。二人の遺体は庭に深く埋めた。とても火葬など出来る余裕は無かったし、此れが最善だと思った。他人が庭に入り込むのは困難とはいえ外に出るのは躊躇われたが、患者が近寄る度に作業を中断して慎重に進めたので無事、遣り過ごす事が出来た。汚れた衣類と一緒に二人を埋めると、重荷を下ろしたような爽快さが溢れた。若しかすると俺だけだったのかも知れないが、過程はどうあれ、二人を埋葬出来た事がとても嬉しかった。俺達はまだ、人間だと胸を張って言えるように思えた。
 食糧が在りそうな所は何処かという話になった。コンビニエンスストアは五十メートル位先と、二百メートル先に在る。近場は此の二件だけだ。スーパーはもう少し歩かないといけない。しかし、其処には食料品、ホームセンター、衣料品、百円均一等々、様々な店舗が集合しているので、収穫は見込めそうではあった。そして、近所の家。一家全員が感染した場合もあるし、何処かに避難している場合もあるだろう。普通の人間が残っている家はほんの僅かに違いない。気は引けるが生きるためだ、コンビニやスーパーに行くより近くて安全な手段だろう。
 唯、何処に行くにも付いて回る危険というのがある。感染者との遭遇だ。動きを止める方法が分かったと言っても、急な対処には向かない。他の患者を誘いこんでどんな手段が有効か実験してみようか。思い付きはしたものの、発想のおぞましさに恐れをなして、とうとう言い出せなかった。兎に角危険でも外に出るしかない。まりの家から近いのは、俺の家と反対側にある家、それと向かいの三件と言った所だ。先ずは情報収集からという事で各家を二階の窓から覗いてみたが、人が動いている気配はない。外にも患者は見当たらず、何とは無しに問題は無い様に思えてきた。
 なるべく短い時間で済ませる為に、何処を探索するのか、何を持って帰るかを入念に打ち合わせた。また、忍び込んだ家の中で患者に遭遇した場合どうするか、外で遭遇した場合は。食糧で一番良いのは、非常食、乾物、菓子類と言った所か。他はもう屹度駄目に為っているだろう。この辺りにソーラーパネルを付けている様な家は無いので、何処も似たり寄ったりの状況だと思われた。また、衣類も自分にあったものを頂戴する事にした。未だに日照りは続いており、服は幾ら有っても足らなかった。そして、これらの物資が有るだろう台所、茶の間、寝室を重点的に物色する事にした。繰り返す様だが、なるべく手早く済ませたい。
 生存者が居た時の為に一応、物資を分けて貰いに行くという立場をとる事になる。もし家に感染者が閉じ込められていた場合に備え、噛み付かれない事が前提ではあるが、長袖を着こみ、肌を極力露出させない様にした。最早まりにあの恰好を見られていた俺は再び忍者の様な格好に甘んじた。まりは其れを馬鹿でも見るかの様に一瞥すると、暑い暑いと言いながらシャツの上に革のコートを羽織った。また、手早く猿轡の代わりに咥え込ませられるかも知れないという事で、ベルトを幾つか携帯した。これらは緊急の為の準備であり、逃げられそうならば一目散に逃げる事になっている。

   *  *  *  *  *  *  *  *

 準備は万端だった。完全武装の状態で外に出ると、見慣れない男が力を失いかけていた。またしても俺は、シャツに顔を包んだ間抜けな姿態を他人に晒してしまった。所が俺は、直ぐに其の恥が気にならなくなる。そいつは、俺をいじめていた主犯格だった。もう十年以上も会っておらず、成長期を完全に脱した彼は、当時とは別人と言って差し支えなかったが、其れでも俺は分かった。恨み辛みは無い心算だったが、彼に対する苦手意識が克服出来ている訳ではなくて、俺は少し戸惑った後に、念の為、彼の呼吸を確かめた。口に手を当てられた彼は其れを払い除けると、俺を見上げた。
「だ、誰だ……?」
 俺は名乗った。
「ああ、お前か。覚えているよ。まさかまだ恨んでいるのか」
「い、っいやっ」
 俺は否定するのすら精一杯だった。
「否、済まん。恨んだ儘でもしょうがないか。其れより、此処で話をする気か。見捨てられても文句は言わんが、どうせならゆっくり話さないか。一寸した情報位なら提供できるぞ」
 まりが俺の背から首をひょこっと出して、彼を一瞥する。
「あんた、相変わらずね」
 彼は驚いて息を詰まらせた後に、当然の疑問をぶつけた。
「まりちゃん、何でこいつと一緒に……」
「あんたには関係無いわ」
 まりは冷たく言い放つ。俺は完全に戸惑ってしまっていて、まりの態度に爽快感を感じるべきかどうか迷っていた。
「くっ、いじめられっ子の癖に運のいい奴。まあいい。決断は早めにしてくれ。なんか用事があって出てきたんだろうが、多分これは天のお導きだ。俺になのか、お前らになのかは分かんないけど」
 俺たちは議論の余地を感じなかったので、いじめっ子であった頃のある青年の和也をまりの家に引き擦り込んだ。玄関の鍵を締めると、まりは情け容赦のない調子で聞いた。
「で、情報って何よ」
 和也は絶句していたが、まりは当時のいじめを善くは思っていなかった内の一人だった様だし、当然の反応なのかも知れない。
「あ、あの、俺ガチで死にかけてんだけど……」
 和也は少し黙りこくって、水の一杯も頼んだものか迷ったらしいが、先に情報を提供するのが吉だと判断したらしく、此れまでの経緯を話し始めた。
「俺と博幸、覚えているだろ、同じクラスで学級委員をやってた奴。そいつとでゾンビ共を一網打尽にしてやろうって計画していたんだ」
 俺は少し動揺した。博幸というのは、どちらかと言うと正義の味方染みた奴で、何時も自分が正しいと信じて疑わない様な、全てに味方されているような、良い奴には間違いないが俺の好きではない種類の人間だった。動揺した原因と言うのは、博幸と言うのが唯一、和也率いる集団に表立って立ち向かい、俺を庇ってくれた人物だったということだ。何故そいつが、いじめっ子の主犯格である和也と共に行動していたのだろうか。その疑問を口に出そうとしたが、直ぐにいじめが子供の頃の些細な出来事でしかなくて、彼らは何処かでウマが合う様な出来事を経験し、真っ当な人間として生きていたのだろうという推測に至った。事実、彼らがやろうとしていた事は、子どもの頃の下らない行動ではなくて、人類の誇りを賭けた戦いだったのだから。
 其れで、と和也は話を続けようとしたものの呼吸が上手く出来ないらしく、眉間に皺を寄せ、血が滲むほど唇を噛み締めた。
「水、まりちゃん、水を少し持って来るよ」
「この調子じゃしょうがないわね。いいわ、私が持って来る」
 既にコートを脱ぎ棄てて身軽に為ったまりが、台所へと消えていく。俺は、自分をいじめていた奴と二人きりになってしまって、妙に気まずいように感じたが、和也の方は拳を固く握り締めてぶるぶると震えていて、其れ所ではない様子だった。まりは戻ってくると、無言で和也の口元にコップ一杯の水を近付けた。ありがとうと言った和也の礼が短く感じたのか、まりは注意する様に言う。
「今日日は綺麗な水一杯も、貴重なんだからね」
「分かってる、本当にありがとう」
 和也は内から来る衝動を止める事も出来ず、一気に水を飲み干した。余りに急いだ為に咳き込んでいたが、俺達は背中を摩る事もせずに其れを眺めていた。薄暗いまりの家の廊下に、一筋の陽光が差し込んでいた。

   *  *  *  *  *  *  *  *

「博幸と其処ら中の家から可燃性の物を集めていたんだ。奴等は昼は動きが鈍る。その隙を狙って、学校を取り囲む様にボンベや何かを集めてた。まあ、鈍るとは言っても、何か刺激が有ると急に活気付きやがるから、慎重に動かないといけないのには変わり無かったんだけれど」
 俺は、数日前に聴こえた大きな爆発を思い出した。まさかと思ったが、彼の話の腰は折らなかった。
「他にも何人か体力の有る奴が居て、割合巧く行っていた。中には警官の生き残りも居たから、時々銃で奴等に応戦してな、映画みたいだったぜ。生きた心地はしなかったし、もう二度と御免だけどな」
 此処で俺は、初めて警察署が感染者の集団に襲われ、多くの人が犠牲になった事を知った。
「作戦はこうだった。学校に燃え易い廃材だのを入れて、奴等を教室に閉じ込め、丸焼きにしてやろうってさ。燃やせば奴等も完全に死ぬからな。本当に上手く行っていたんだ」
 悔しそうな、悲しそうな、そんな複雑な顔をしていた。其の話し振りから、少なくとも完全には作戦が遂行されなかったのだろう。彼の今の様子からしても、被害も多かったに違いない。
「各教室に少しずつ鮨詰めにして行って、多分百人位ずつ入れられたはずだから、三、四千人ばかり学校に閉じ込める事に成功した。たった一週間で其処までした」
 昔も、こうやって物事を大袈裟に言う奴ではあった。だから、収容した人数についても、細かく突っ込む様な事はしなかった。
「博幸の指示が無ければ流石に其処まではできなかっただろうな。完全に出入りが出来ない教室内で、ゾンビ達が共食いしているのは想像に難くなかった。酷い臭いと、叫び声は昼夜を問わず響き渡っていた」
 彼は博幸に妙な信頼感と尊敬の念を抱いて居る様だった。彼等の関係性に興味が出て来たが、知らなくても良い様な気もした。
「共食いした奴等の中で生き残るのは、最も強いゾンビだ。其処まで想像するべきだったのかも知れない。木材で補強した窓を壊す奴が出てきた。其れはたった一人だったが、今迄見たゾンビの中でも、一番速くて一番力強かった。俺達は混乱した。博幸だけは冷静で、こいつを街に放す訳には行かないと、俺達に諭した」
「まさか……」
 俺は初めて口を挿んだ。和也は俺の方を見て、再び俯いた。彼の言葉に今迄以上の説得力と、脅威を感じて居た。蠱毒の中で生まれた、速く、強く動ける感染者。そして、博幸の決断は、身を切る物だったのだろう。ああ、そうだ。奴はそういう奴だ。俺には決して真似出来ない、自己犠牲の精神を持ち合わせた英雄。俺は奴のそういう所が嫌いだった。端的に言えば嫉妬だが、其の不器用さが哀れにも見えていた。其れなのに、彼は其の性質を甘受していたのだ。端的に言った事が結論でも有るのかも知れない。とどのつまり此れは単純な嫉妬なのだ。
 俺の想像に留まっていた事が、和也の口から漏れ出て来た。
「博幸が奴を引き付けている間に、俺達は逃げ出し、学校に火を放った。のうのうと生き延びた俺が言っても陳腐かも知れないが、本当に苦渋の選択だった。此れ迄の苦労を水の泡にしない為にも、俺達は決断を避けられなかった。今でも後悔しているのは、あの時引き付ける役を博幸ではなく、俺がやるべきだったということだ」
 淡々と話していたが、時折俯くと呻き声を上げた。其れが俺には酷く口惜しげに見えた。彼は生き延びた言い訳をしているのでは無くて、本心からそう言っているのだろうと思った。俺は同情したのかも知れない、少しでも労って遣りたい気持ちになった。
「君は最善を尽くした」
「あんたやっぱりお人よしね」
 俺がつい口に出してしまった一言に、まりが呆れて言う。
「其の時にガスボンベに引火して、かなりでかい爆発音がした筈だが、聞こえなかったか?」
「聞こえたよ。丁度此の家で患者が玄関を叩いて居る時だった。爆発音に釣られて其の患者はここを離れたんだ。僕達もその爆発に助けられた」
「そうか」
 和也は少し笑った。また独り言の様に、彼は言葉を紡いだ。
「確かに、其の爆発に予想以上に多くのゾンビ共が群がって来やがった。炎の中から焼ける体を抱えて出てくる奴もいた。俺達は必死で逃げ回った。だが、多くのゾンビが焼け死んだはずだ。共食いで死んだ奴も相当数居るだろう。もうあれから四日位経っているけど、先刻見たら未だ校舎は燃えて居た。其れ処か、付近の家に火が移ったらしく、何件かから火が上がって居た。流石に此の家までは燃え広がらないだろうが、暫くの日照り続きで彼方此方乾燥しているだろうからどうなるかは分からない」
「そう」

   *  *  *  *  *  *  *  *

 まりは、正直な所、必要な情報が出て来なくて幾らか苛立って居る様だった。俺達にとって何より大事なのは、食糧に関する話だからだ。唯、気掛りな事は寧ろ増えた様に思う。他の感染者よりも強い感染者だ。ゲームや映画の様に、再生能力が有ったりとか、自動車よりも速く走る様な奴だとしたら。彼に依れば、博幸と共に死んだそうだが、何千人の内一人だとしてもそんな患者が現れる可能性が有ると言う事だ。
「そ、そうだ。食いもんが有る。三件先の保木と言う家だ。即席麺を箱で備蓄していて、水とガスボンベもあった。アウトドアとか、星の観測とかを趣味でやってたのかもな。家には誰も居なくて、其れで……」
「あんた、其れでどうして私の家の前で倒れてたの」
「あ、えと……」
 核心を衝かれた様に彼は口籠った。まるで子供の様に赤面して、愛でも告白しようとして居る様だった。
「正直な処俺はもう長くない。昨日噛まれたんだ。其れで、まりちゃんの家が近くに在るのを思い出して、もしまだ居たら、其の事を教えてあげようと思って……」
 すっかり彼は純朴な少年に戻っていた。何故彼は此れ程までに純粋に思える行動を取れるのだろうか。彼はもう大人になっていたし、其れ処か彼の性格は甲斐甲斐しさとはまるで無縁だった。だが俺は直ぐに其の理由に気付いた。俺もまた彼と同類だったからだ。まりは果たして気付いているのか、質問を重ねる。
「何であんたが家を知ってんのよ。教えた事も招待した事もないでしょ」
「う、あ、え……」
 俺は助け船を出した。
「まあ、和也君の折角の好意なんだから、素直に受取ろうよ」
「馬鹿ね、罠だったらどうするつもり? 生きた人間なら、食……」
 言いかけてまりは口を手で覆った。自分が余りにもおぞましい事を言おうとしている事に気付いたからだった。だが、其の発想をするまりを責められる程俺も想像力が貧困ではなかった。
「分かるけど、でも」
「そ、そうね、其の怪我で、誰かの為に動くのは大変だったろうし、途中でゾンビ共と会うかも分からない。私達が此処に居るかどうかも分からなかったんだものね。悪かったわ」
 和也は謝らなくていいと言ったが、俺に何とも言えない視線を送った。結局彼がまりの家をどうして知っているのかを聞きそびれた訳だが、世の中には明らかにしない方が良い事もあるのだ。
 俺は和也の残りの命が長くないことが本当だと気付き、彼が思いの丈をぶつけられる様に席を外すことにした。まりは、流石に何かに気付いたのか、直ぐに来られる所に居る様にと小声で言った。俺はトイレの扉を開閉してからまり達と角を隔てた所に戻った。
 甘い事を言えば、和也の事を信じたかった。だから、本当にトイレに入るつもりだった。だが、死ぬ前の人間が、自棄に為っているのか、覚悟しているのかを見分けるのは酷く難しい。特に俺みたいな奴にとっては。
 和也は何かをぼそぼそと呟いた後、何も喋らなくなった。まりは、来て、と言い、俺は其の通りにした。
「残念だけど、昏睡状態に入ったわ。あと二日で和也はあの状態に……」
 玄関の直ぐ前を患者が青空に文句を言いながら通り過ぎて行った。此方の話声には気付かなかった様だ。まりは俺に背を向けていた。
「例の液体を嚥下させよう。生ける屍にするのは可哀想だ」
「そうね」
 まりの声について明らかにするのは、無粋だろう。人死にに慣れる事は決して無い。俺はそう思う。
 其の晩、久し振りの雨が降った。


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