街を見下ろす満天の星

6 生活が安定するか否か

 もうずっとまりとの間に、会話が無かった。口を動かす気力も無く、日がな一日ぼうっとしている事が珍しくなかった。食糧は自衛隊員から支給された物も含め、其れなりに残っていた。
 自衛隊はあれ以来一度も姿を現さない。航空機の音も聞こえないし、自動車が動いている様子もない。ガソリンなどとうの昔に尽きたのだろう。其れに患者も道を通り掛かる気配を見せない。辺りに隠れ住んでいる人とも連絡を取り合っている訳ではないし、世界にまりと俺の二人きりの様に錯覚してしまうほど、何も無い生活を送っていた。
 八月は終わりを迎えようとしていたが、蝉は相変わらず鳴いているし、暑さが和らぐ気配もない。
 本当に何もない。
「何かを得るためには、自分から動くしかない」
 自分がつい口走った言葉に吃驚した。何処で見た言葉だったか、自分には何も無いと自嘲する者に、話し相手が諭した言葉だったように思う。観たのは当然世界がこんな風になる前だが、それ程昔の話でもない。作品名は忘れたものの、自分が置かれていた状況に似ている様な気がして、身体の何処かに突き刺さったかの様に記憶にこびり付いていた。
「どうしたの突然」
「あ、いや……。この所、劇的なピンチも、誰かに会う様な事も何も無いなあ、と思ったら、ふと浮かんだんだ」
「ふうん、何かの格言かしらん。でも、確かにそうね。ずっと隠れている訳にも行かないわ。非常食はまだもう少し持ちそうだけれど、尽きるのを待っている手は無いものね」
 まりは俄かに元気を取り戻し、ソファに深く埋めていた下着姿を前に突き出した。何処かわくわくしている様にも見える。そういえば、まりとは随分昔に、キャンプに行った事があった。小学生になる前だ。あの時は、隣同士家族ぐるみの付き合いがあって、お互い一人っ子だったので、兄弟の様に仲良くしていた。そういう時には、何時もまりが先頭に立って、山の中の冒険をしたり、川で生き物を見つけたりしていた。きっと彼女は、そういうアウトドアみたいな物が好きなのだろう。まりが其の事を覚えているかは分からないけれど。
「そうね、食糧を確保するとなると、家庭菜園とかかな。タンパク質はどうしよう。鶏でも飼えばいいのかしら。山の方へ行って、農家の人にお世話になりに行くというのも一つの手かしら」
「山は良いかもね。水も綺麗な物が湧き出ているかもしれないし」
 話題が出たのは助かった。実際にそんな遠出が出来るとも限らないけれど、ずっと腐っているよりはいい。
 此の先について、どうなるのかは本当に予想がつかない。この伝染病の被害は世界的なものだと、ラジオパーソナリティは言っていた。今、機能しているのか分からない行政は、これから国民を導いて行けるのだろうか。そもそも、人口はどれほど残っているのだろうか。それほど人口の多くないこの町で、和也の言葉を信じれば一割から二割の人が校舎の中で燃やされたという事になる。其れ以外にも患者は居たし、まりの両親の様に自分達でけじめをつけた人々も居ただろう。人口が半分に為ったとしたら、従来の様な社会の形成は難しいかもしれない。これからは第一次産業の復興が先に立ち、当面は昭和初期の様な家電に囲まれない生活を送る事になるかもしれない。それでも病の流行が収まるのであれば、今よりはずっといい状態に違いない。
 自衛隊が用意したという避難所はどうなったのだろうか。そこにはどのくらいの人がいるのか。知りたい事を知る為にも、動くしかない訳だ。果報は寝て待てとも言うが……。
 諺や格言の類はよく出来ている。殆ど対の意味になる物が用意されているのだから、「ああ言えばこう言う」という状態と言える。自分に都合の良い様に使う事になるから、そんなものを議論の場に出されたら、その相手はうんざりする事だろう。

   *  *  *  *  *  *  *  *

 其れは兎も角、行き先の候補は避難所、山、農家、後は以前行き損ねたコンビニ、スーパーのあるモール街か。だが、自衛隊が用意した避難所はそれ程多くなく、最寄りでも隣の市にしか無いらしい。此れは先日小学校での噂話から聞き出したものだ。まりの話からすれば其れ以外の避難所は、恐らく何処も似たり寄ったりの理由で機能していないだろう。当然、避難所へ行くのは優先順位が低くなる。
 最も近い所と言うと、農家よりはモール街だ。此処の所の患者の少なさから、以前よりは行きやすくなったと思う。其の途中にコンビニが一軒あるから、序でに其処に寄るのも良い。
「一度モール街に行ってみよう。何か役に立つものがあるかもしれないし」
「そうね、山へ行くとしても歩いて行けば半日か、其れ以上掛かってしまうからね」
 其れから着替えて、エコバックやらリュックやらを空っぽのまま持てるだけ持って外に出た。其の日も、患者はおろか人影の一つも見当たらなかった。最初の角を曲がった時に声を掛けられた。
「おーい、何処へ行くんだ。外は危ないぞ」
 リュックサックを背負っていたし、二人で連れ立っているので患者ではないと判断したのだろう。まりが答える。
「モール街に火事場泥棒しに。何も無いかもしれないけど。何か必要な物が有るなら序でに持って来ようか」
 逆光で分かり難いが、濁声と禿げ頭が光を反射している所を見ると、年配の男性だろう。まりは若い女性特有の物怖じしない調子で話していた。
「そうだなあ、余裕がありそうだったら、でかい刃物持って来てくれ。鉈とか鋸とか」
「家庭菜園でも始めるの」
「否、ウチのがちょっとな……。気にしないでくれ、刃物も持って来てくれなくて良い」
「グルタミン酸ナトリウムを飲ませると良いよ」
 まりははっきりと言った。男性は少し戸惑った様子だったが、ありがとうと言うと家の中に引っ込んだ。今のやり取りで患者が近付いて来ていないか、俺は気にしきりだったが、どうやら本当に此の辺りに自由に動ける患者は居なくなったらしい。まりが先へ進もうと促す。
 今生き残っている生存者は、普段から非常食を貯蓄していたり、或いはペットを飼っていたり、或いは何処からか盗んだりした人達だろう。彼等が此の先も生き残れるのか、どう動くつもりなのか、など取り留めもなく考えながら、モール街までの道のりを黙々と歩いた。
 当然と言うべきなのか、コンビニでは収穫が無く、モール街は荒らされていた。割れていない硝子を探す方が難しいが、唯中へ侵入する際に障害が無い為に余計な音を立てずに済みそうだという事が、不幸中の幸いに思えた。
 驚いた事に持ち去られた物は殆ど無い様で、収穫が予想以上に多かった。恐慌の初期に人が殺到した所に、患者の集団がやって来たのだろうなどと気ままに想像した。特にモール付近に居を構えている住民は、患者が居るとしてもこの近さなら直ぐに逃げられるだろうと高を括って集った事だろう。音や動くモノに反応する患者達が、モール街で蠢く大量の餌に気付かない筈がない。警察署にも患者の集団が襲来したと言うから、其れも裏付けと言えるだろう。あの破滅の鐘が鳴り、住宅街を練り歩く患者が増加した頃合いから、多くの人達はどんな理由であれ外出を控えただろうし、其れも多くの物資が残されていた要因の一つだろうか。
 リュックサック一杯の缶詰と、乾物、調味料、エコバッグ一つ分の飲料を手に入れてから、少しホームセンターを回ろうという事になった。バッグはまだあったし、食糧も駄目に為っていない物が相当数残っていたものの、改めて考えてみると余りにも身軽さに不安があるし、加えて瓦斯や、炭も必要だという事になったのだ。
 ホームセンターも同様に、欲しい物が十分にあった。瓦斯の他にも、下着や洗剤も置いてあったし、植物の種も幾らか失敬した。
 暗い店内で、其々必要だと思う物を手に入れると、一度落ち合った。俺の髭面を見ながら、まりは笑い始めた。
「ふふふ、車、盗んじゃおっか。鍵が付いた儘になっていればだけど」
 俺は当然免許を持っていなかったから意識の外だったが、モール街には何台もの車が残っていた。
「まりちゃん、免許持ってたんだ」
「いいえ。でも大丈夫よ、アクセルとブレーキが分かれば運転なんか簡単だって」
 俺は今迄上手く行き過ぎていた分、一気に不安になった。
 ふと店の外を見ると、人が続々と集まって来ているのが見えた。一瞬患者かと思ったが、どうやら俺達が大量の袋を持って歩いていたのを見て、生存者たちが挙って集まって来たらしい。俺は、彼らが感染者でない事に安心していたが、今度はまりが戦慄した様子を見せた。

   *  *  *  *  *  *  *  *

「急いで此処を出るわよ」
「え、急にどうしたのさ」
「よく聞く言葉だけど、此の窮まった状況では洒落にならないわ。世の中で一番怖いのは鬼でもお化けでもなくて、人間なのよ。宝の山を見た人々が、何を考えるか分かったもんじゃない。其の上、患者が未だ居たら此の騒動に気付かないとは限らないじゃない」
 俺は、事態の緊急性に気付かされて、暑さの所為ばかりでない汗が滲み出るのを感じた。
 俺達は身を屈めて、車の間を運転席に鍵があるか確認しながら進んだ。皆、食料品が置いてあるスーパーに真っ先に向かった様だった。日差しと大量の荷物に朦朧となりながら進むと、まりが先に鍵の掛かった儘になっている車を見付けた。ホームセンターからかなり離れているスーパーが騒動になっているから、多少の物音では気付かれない。ガソリンが有るかどうかはエンジンを掛けてみないと分からないらしい。しかし、駐車場に丁寧に置いてある以上、ガス欠ではなくパニックによる放棄だと考える方が自然だろう。
 物音を極力立てない様に荷物を積み込み、乗り込む。運転席にはまりが乗り、ミラーの確認をするとエンジンを起動した。屹度、何人かは気付いたと覚悟したが、驚く程静かにエンジンは震えていた。ガソリンは満タンに入っている。何かのニュースで、余りにも静か過ぎるので事故防止の為に、擬似エンジン音を態々流す車が在ると言っていたのを思い出していた。まりは慎重に車を進めた。
 後ろから、人が此方を指さしているのが見えたが、もう人の足で追いつける位置では無かった。駐車場から出て、スピードを出した途端に人と擦れ違った。後続の生存者かと思ったが、其の人の鼻は真っ赤な花の様に開いていた。
「間一髪ね。あの人達には悪いけど、こんな時にお祭り騒ぎをしてるのが悪いんだわ」
 どうにかしてやりたいと思わないでもなかったが、俺にはどうしようもない事は分かり切っていた。まりの運転が思いの外上手い事を褒めながら、家路に就いた。
 国道から住宅街の細い道に入ると、誰かが疲れた様子で座りこんでいるのが見えた。靴はぼろぼろで顔も見えなかったが、自分の母親を見間違える筈は無い。もう随分まともに顔を見ていない。其れは引きこもっていた事も理由の一つだし、此の騒動の中で行動を共にして居なかった事も、一つだった。其れでも、直ぐに其れが母親だという事が分かった。まりに車を停めて貰って近付くと、母はクマだらけの目を此方に向けた。信じられないモノを見たと言う様に目を丸くすると、笑い出した。
「アハハハ、まさか最期にあんたの幻を見るとはね。もう諦めた心算だったのに、やっぱあたし母親だわ。アハハ」
 俺を幻だと思っているらしい。結構衝撃的な事を言われた様に思ったが、気にしないことにして正気になるように促した。
「しっかりしてよ。父さんはどうしたのさ」
「え、あれ。幻じゃない」
「こんな所に居る場合じゃないんだ。車に乗って」
 腕を強引に引っ張ると、母は其れに抵抗する事も無く立ち上がり、車に乗り込んだ。
「何此れ。どうなってんの? あんた部屋どころか家から出てんじゃん。つーか何でまりちゃんと一緒に居る訳?」
 俺の母親は割合若く、もう直ぐ四十に為ろうという所だった。色々と後部座席から喧しく言って来る所を見ると、其れなりに元気な様だった。
「あれ、まりちゃん、卒検落ちて諦めたとかいってなかった?」
 余計な言葉の多い人だ。俺の手からは汗が再び滲み始め、まりは急ブレーキを踏んで、危うく先刻話した男性宅の塀に突っ込む所だった。
「おばさん、止してよ、後少しで着くのに」
 まりは体勢を立て直した。そこへ、ブレーキ音に気付いた男性が再び声を掛けて来た。
「随分立派なモン泥棒して来たな。大丈夫か」
「大丈夫、あ、モールには行かない方が良いよ。私達の所為かも知れないけど、人が殺到しちゃって」
「そうか。まあ良いんだ。うちは食いもんはたくさんあるから」
 そして、俺達は家に辿り着いた。母がガレージを開けてくれたので、自動車を其処に隠すと、まりの家に荷物を持ち込んだ。

   *  *  *  *  *  *  *  *

「へえ。引きこもりのあんたでも、流石に出なくちゃなんなくなった訳ね」
 何処かで聞いた様な罵倒を受けて、首を垂れる。
「でもよかったわ。知ってる? 弱肉強食の中で最も生き残る確率が高いのは、腕力が強い奴じゃなくて隠れるのが上手い奴なのよ。隠れるってのには忍耐が居るし、そう簡単な事じゃない。まああんたの場合、忍耐と言うより引きこもりの所為みたいだけど」
 幾ら肉親でも容赦なさ過ぎじゃないだろうか。
「前に戻って来た時は部屋にいないからどうしたのかと思ったけど、まさかまりちゃんの家に転がり込むとは、案外やるわよね」
 本当にもう、ずばずば言う。
「戻って来てたって本当?」
 まりが気付いて質問する。俺の母の遠慮の無さには慣れっこらしい。
「そうそう、旅行先で暫く缶詰めにされていて、漸く外に出て良いって事になって戻って来たんだけど、こいつは居ないし、まりちゃんとこのインターホン押しても反応ないし、しょうがないから必要なもんだけ持って、自衛隊が管理してるとかいう避難所に行ってきた訳」
 まりは口を挿まずに熱心に聞き入っている。母の話からすると、多分例の風呂場での騒動の只中に帰って来ていたのだろう。インターホンに全く気付かなかったが、あの時そんな音に気を配る余裕が無かったのも確かだ。そしてあの後行った家が荒らされていたのはそう言う理由だったのだ。
「避難所はまあ、快適とは言えなかったけどね。でっかい扇風機が回ってたんだけど、蒸し暑くて。食べ物には困らなかったけど、熱中症で倒れた人もいたみたい」
 母は好きな事を好きな順番で喋る。聞くのは大変だが、俺達は黙って聞いていた。
「それでさ、もう大変なの。他の避難所でもそうだったらしいんだけど、身内が感染した時にそれを隠しやがる人が居んのね。寝てるだけだとか言って。しかもなんか、偶々なのかな、その時感染した奴がやたらと巨大化して、腕力なんかも凄い強いから、噛み付かれて感染するまでもなく死んじゃうの。空腹の虎が迷い込んだようなもんよ」
 そんな状況を偶々で受け入れる母の寛容さに感心しながら、耳を傾けた。
「何人か殺されちゃって、其の虎みたいになった奴は外に出て行った。自衛隊が銃で撃ったのね。それから逃げるみたいにして。死なないまでも何人か噛まれたり引っかかれたりしてて、もう蜘蛛の子を散らす様に皆逃げ出しちゃった。自衛隊の人が止めようとしたんだけど、無駄だったみたいね」
 あの巨大な患者は、隣の市から来ていたという事らしい。申し訳程度の救援物資を、気前よく配る訳に行かなかった背景が分かった様な気がした。
「それであたしと父さんもあんなのが出てくるんじゃ家に居た方がいいってんで、帰る事にしたんだけど、色々あって車が出せなくてね。隣の市から、しかも山奥だったから一駅以上分の距離を歩いて来たのよ。それで……」
 俺はとうとう父さんの命運を聞く事になると悟り、覚悟した。此処に居ないと言う事はそういう事になるのだ。母は言葉を探すように視線をきょろきょろさせていた。まりが気を利かせて先刻調達してきた物から、五百ミリリットル入りのお茶を母に差し出した。母は其れを半分まで一息に飲み、俺を見つめた。
「父さんは、死んだわ。ゾンビに噛まれた所を見たから、食われてなくてももう昏睡状態に陥っている頃よ。休憩しようとして忍び込んだ家で、一家揃って感染しててね。奴ら動きはとろい癖に、なかなか逃がしてくれないんだ。父さんはあたしを逃がしてくれて、其の時に奴等に捕まって……」
「母さん……」
 人には休息が必要だ。母は其処で休息し損ねた上に、父まで亡くして失意の中何日も気の休まらない日が続いたのだろうから尚更だ。あの巨大な患者が此の町に現れてから、五日は経っている。彼の避難所から何の障害も無ければ徒歩だとしても一日すら掛からない筈だ。どういう道程が続いたかは知らないが、思う様に進む事は出来なかったのだろう。
 母はまりのベッドで休む事になった。直ぐに泥の様な眠りについた。

   *  *  *  *  *  *  *  *

「おばさん、生きてて良かったね」
「うん」
 良かったという思いは当然あったが、複雑な気分には変わり無かった。父さんは死んでしまったらしいし、両親が亡くなったまりの前で、遠慮の様な妙なしこりが有るのを感じていた。
 そして、山へ行こうと言う発案が頓挫したように感じ始めていた。車を持ちだした時は寧ろ、これで山まで行けるのでは無いかとすら思ったが、避難所の話を改めて聞くと農家にお世話になり、共同の生活を不特定多数の他人と過ごす事に不安が募る。
 まりは父については言及しなかった。何か言われても何と言って良いか分からないから、却って助かった。だが、恐らく父の遺体は居場所が分からないままになってしまうだろう。生きて会えないことは勿論、其れも心残りだった。
 俺は単に実感が湧いていないだけだった。両親は死んだだろう等と言う短絡的な推測は、自分の家族だけは大丈夫だろうという根拠のない自信が無意識にあった事に基づいていた。幸いにも母とは再会出来たが父は……。
 父と最後に交わした言葉は何だったろうか。そもそも、顔を合わせたのは何時だったか。暗くなっても布団を求めない俺の隣に、まりは何も言わず座り続けていた。
 やけに鈴虫の鳴き声が高く聞こえる夜だった。


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