街を見下ろす満天の星

5 生存者について

 生存者は、これまでの経緯から推察するに、住宅地の彼方此方に疎らに隠居しているのだろう。若しかすると餓死者が出始めているかもしれない。俺達も、何時栄養失調に為ってもおかしくない状態だった。
 少し疑問に思っていた事もあった。俺の家が荒らされていたにも拘らず、保木宅は和也が残したと思われるモノ以外はまるで人が入った形跡がなかったのだ。暇が有って他の家を物色したもののどれも同様だった。そう、何故か俺の家だけが狙い撃ちされていたのだ。総当たり式に家を荒らしたのではないとすると……。
 其処まで考えて俺は止めた。希望を語るべきじゃない。特に此の種の希望について、まりの前では。
「足りない物が多すぎるわ。特に水。水がこんなに大事だったなんて。それに瓦斯も欲しい。外に出られるなら木でも何でも燃やせばいいけど、そう言う訳にも行かないし」
 下着姿のまりが言う。別に進展があった訳じゃない。清潔な服が足りないのだ。先日降った雨のおかげで、身体を洗ったり水を確保出来たものの、今後の見通しが立たない為に洗濯に水を使うのが得策でない様な気がして、煮沸と簡単な濾過をして飲み水として保存してあるが、それも多くはない。それにまた今日も暑い日和だから薄着でもまるで問題は無いが、俺はそれなりに若い訳で最初の内は眼のやり場に困っていたが、其れは相手も同じで、少し沈黙が続いた時に突然まりが言った。
「止しましょう! 相手の格好を気にしてたら余計に疲れるわ!」
「はは、善処するよ」
 俺は力無く答えた。相手には一部黙認して貰ってる部分はあるものの、一応今は相手の目を見て話せる位には慣れた、と言っていい。もう二、三日もこの調子なんだから。
 和也が儚くなって直ぐに患者の集団が虚ろな様子で大移動して行くのを見た。それ以来、一人も感染した人を見ていないから、もしかしたら全ての感染者がこの一帯から居なくなったのでは無いか、という考えが頭を擡げつつ、逆に何かおぞましい事があるのでは無いかという不安感もあった。
 まりがお尻を振りながら、ご飯の用意を始めようとする。最近は栄養が偏りがちな器入り即席めんを一日に一度か二度しか食べてない。保木家での探索は、それほど困難ではなかった。患者が近くに一人も居なかったし、保木家の中の安全も和也によって保障されているようなものだったからだ。他の家も、ノックと小声での呼び掛けで、中に人が居るか居ないかを判断して入ったから危険に遭う事も無かった。映画の様に患者が飛び出してくる事も無く、余りに上手く行きすぎているのでは無いかと疑ったほどだ。
 ただし、一度だけ感染者に遭遇した。彼は飛び出してくる事も無く黙々と何も映っていない画面に向かっていた。俺は油断し切っていて、うっかり大きな音を立ててその扉を開いた。最初、長袖のシャツを着た後姿に生存者の一人かと思ったのだが、肩口に茶色くこびり付いた半円の染みが有った。彼はゆっくりと俺の方を見た。その目の片方は何処かに落としたらしく闇に沈んでおり、騒音を立てた俺を責める様だったが、直ぐに無関心に為り元の姿勢に戻った。彼も恐らく俺と同じだったのだ。家族が感染し、何かの拍子に彼は……。
 俺は運が良かったのだと思い知らされた。唯、俺は感染すれば須らく他人に迷惑を掛けるものだと思っていたが、彼の様な従来の生活を続ける者もいる事を知った。
 日中もずっと閉めっぱなしのカーテンから日差しが漏れる。陽光を入れたい所ではあったが、徒になった彼らが僅かな隙間を見つけて庭に回り込んで此方を窺うとも知れないし、どちらが言うともなく閉めた儘にしていた。どの道この一張羅だ。居るかどうか分からない生存者にも見られたい状態ではない。
「私が思うに――」
 まりは発泡スチロールの器を僕の前に置きながら、話し始める。器は紙製の蓋に覆われており、お湯を入れる為に接着されて居た蓋を開けた様な跡がある。
 露出の多い格好に慣れたとは言え、前屈みになって出来た隙間から普段見る事が出来ない様な部分が覗き見えると、どうも其方に目が行ってしまう。正気に戻って視線を上げた時に、塵芥を見るような彼女の視線にぶつかり、場都合が悪くなった。殆ど脊髄反射の如く謝る。
「ご、ゴメン」
「まあいいわ。それで、何時までこんな状態が続くかって話だけど、ゾンビ共が腐敗する以上、腐敗しきって身体が動かせなくなる時が屹度来る。それでも新しく増え続けているとしたら更に長期戦になるけれど、夏の終わりを目処に、ゾンビ共との遭遇は極端に減ると思うの。対処が遅れて爆発的に増えたから、今はゾンビ共が徘徊して回っているけれど、その分行動不能に陥るのも、一息。そうすれば、幾らか自由に動けるわ」
 要するに、早ければ後一週間くらいで、自由に動けるようになるかもしれない訳か。もし、生存者が新たに患者に為らなければ。
「それに希望的観測だけど、自衛隊が動いている可能性もある」
 そう、今まで触れられなかったが、自衛隊は市民が暴徒化したくらいでどうにかなる存在ではない、と思う。しかし、今回は暴徒相手とは違う訳で、彼らの敵と言うよりは保護対象者だ。極まった事態に於いて、果たして其れまで信じていたモノが自分を助けてくれるか、それは分からない。こんな状況で断言できる事は、そう多くない。ただ、この町の警察署は潰されてしまったが、間違い無く暴力装置と近似した能力を有する組織は他にもあるのだ。問題の性質上、闇雲に動けないと言うだけの事かも知れない。
「ま、これは希望的観測ね。不測の事態は考えたら限無いし、頭の隅に置いておく程度にしておきましょう」

   *  *  *  *  *  *  *  *

 不測の事態。俺がずっと気になっている事だ。博幸を死に追い詰めた、より強い感染者。速く動き、力強く、生ける者を感染者ではなく唯の屍に変える。恐らく俺達が遭遇した場合、死を覚悟するより他は無い。博幸は本当に其の感染者を死に至らしめる事が出来たのか。そして其の患者に似た力を持った患者が新たに誕生していないか。
 俺の思考とまりの言葉を電子音の点滅が止める。三分経ったようだ。
「取り合えず食べましょう」
 にこりともせずにまりが言う。つりつりとまりが少しずつ麺を頬張って行く。
 俺は不意に、先刻まで差し込んでいた明かりが遮られている事に気付いた。カーテンには触れていないから、太陽が雲でも被ったのだろうか。
 俺は心底間抜けな自分の逃避的思考に厭きれ、まりに声を立てない様に合図した。まりは勘が鋭くて非常に助かる。器を音も立てず机に置くと、俺の方に視線を向ける。まりに窓の方を見る様に目配せをする。正直俺は窓を見るのも怖くて、其れまで自分自身其方に視線を向けないでいた。まりと同時に見た窓には、人間とは似ても似つかない影が浮かんでいた。先程の電子音を聞きつけてやって来たのだろうか。
 俺の生物と言う物の認識から余りにも外れた形である為、想像に過ぎないが、奴は耳を窓に押し付けて居るのだと思う。向こうから此方が動く影は見えない。光が漏れる程度の隙間からでは此方を見る事も出来ない。あの音だけが散歩を楽しんでいた奴の聴覚を刺激したのだ。だから、其の音が途絶えた今、奴は何処から音が聞こえたのかを探しているのだろう。料理の匂いや、俺たちの体臭はどうだろうか。俺は、あの腐臭に患者共の鼻はやられているものと考えているが、あれ程近づいて確認しているという事は、正しいのだろう。あるいは、独自に別の器官が発達しているとしたら。奴らはもはや俺達とは別種の生物だ。夜間に活動する小動物には、赤外線を探知する器官を持つ者もいると言う。だが、今は杞憂だと信じたい。
 奴は頭頂部を窓枠の上部に隠しながら、尚も中を窺っている。桁外れの長身だ。まりは混乱した様子ではあったが、声は一切上げずにいた。此処からでは推測にしか過ぎないが、人間と似ても似つかない姿に思えたのは、腐敗と成長を繰り返して歪な形状に為った結果ではないだろうか。成長。そう表現していいかは分からない。回復や自然治癒の類かもしれない。だが此れでまた不安要素が増えた事は確かだ。
 此れまでは腐敗してしまえば此方のものと思っていたが、回復や成長の類が見られるとすれば、そう単純な話では無い事になる。果たして腐り堕ちるまでにどれだけの時間が掛かるのか。或いは、永遠に腐り堕ちないのかも知れない。
 そしてもう一つ、決定的で絶望的な事実がある。恐らくあれが、博幸や和也が対峙したという、患者の中でも最も凶悪な個体と言う事になるのだろう。全く同じモノなのか、別の患者が凶悪化したのかは想像するしか無いが、兎に角奴が意を決して窓ガラスを割れば、俺達は二度と呼吸をする事が叶わなくなるだろう。
 まりが手を伸ばしてくる。俺も無意識に、まりの手を掴む。お互いの震えが伝わり、相乗効果を以って地震でも起こしそうだった。
 其の儘、何時間も経った様な気がした頃に、ばらばらと回転翼航空機の飛ぶ音が聞こえて来た。奴は身動ぎする様に身体を揺らすと、何処かへ走って行ってしまった。
 俺達は其の儘暫く固まっていたが、ゾウの様な足音が遠くに消えて行くと、漸く息を吐きだした。
 まりが笑って言う。
「見て、まだ麺がのびてない。私、もう半日位じっとしてた気がしてたわ」
 俺も笑った。ヤケクソの様に、其れでもあいつには届かない様に。俺達の笑い声は、絶間無く回り続ける翼の音に掻き消されていった。

   *  *  *  *  *  *  *  *

 即席麺は貴重な食料だから、無駄にする訳にも行かず、嫌がる胃の中に無理やり詰め込んだ。遠くから何かの生物の断末魔が聞こえた。まりの発案で行ってみる事になり、患者に出会った時の為に野球用のバットを持ち、誰かに会った時の為に其れなりの服装に着替えて行った。
 俺達が通っていた小学校の周りに人だかりが出来て、其の校庭には先程の物と思われる航空機が着陸していた。最初其の人だかりが患者かも知れないと思って警戒したものの、会話をしている様子が見て取れたし、各所に点在していた生存者だろうと思われた。
 和也が言っていた様に校舎は全焼していたが、火は既に治まっていた。自衛隊と思しき物々しい服装に身を包んだ人達が、まりの家の窓に張り付いていたモノと思われる化け物を囲んでいた。
 周囲の人々は其れを見ながら、思い思いの事を喋っていた。会話と言うよりは、自分の混乱を相手に悟られない為にか、自分を正気に繋ぎ止めようと口を動かしている様にしか見えなかった。最初の内は柵越しに覗いていたが、誰かが更に近くで見ようと侵入すると蟻の様な行列が出来、獲物を取り囲むようにして再び彼等は口を動かし始めた。
 化物は死んでいる様だった。其の体長は男性が二人縦に寝そべった位の大きさで、前足が二本に後ろ脚が二本と言うべきだろうか、元は人間らしく土気色をした日本人の肌と同じ色をしていてるが、四本足の生物の様な形をしていた。肌は所々、腐った為か緑色乃至黒っぽく為っていた。顔の骨は人間の儘なのだろうが、巨大な餅に小さな餅を幾つもくっ付けた様に為っていた。自衛隊員の一人が何度も乱暴に蹴ってもピクリとも動かない。其れでも万全を期す為だろう、頑丈そうな網でぐるぐる巻きにして、ヘリコプターの下部に結び付けていた。
「救援物資の配布を開始します。希望者は一列に並んで、隊員から受け取って下さい。一人一式までの支給になります」
 誰もが極限状態だろうに、皆が行儀良く其の指示に従っていた。若しくは皆が皆、その様な元気を失くしているのかも知れない。一人の老人が、自衛隊員の一人に食って掛かっていた。何故救助に来ないのか、避難所は設置されないのか、今まで救援物資の支給が遅れたのはどういう理由からなのか、と。他の誰も知らぬ振りをしているという事は、独居老人だろう。こんな状況で独りでは、生活も苦しかったに違いない。彼のシャツには黒ずんだ染みがあった。
 避難所については兎も角、彼と同じ疑問は誰もが抱いていた。他の人が自衛隊の事情を察して黙っていると言うべきか、彼が皆の気持ちを代弁したと見るべきか、俺には分からなかった。対処が誰かの怠慢で遅れたというのならば、飢餓、神経衰弱、熱中症、当然例の病も含めて、其れらが原因で肉親や知り合いを亡くした人々は鬼神の如く怒り狂うであろう。
 だが、自衛隊員は慣れた様に一通りの説明をすると、他にも彼方此方回らなければいけないからと言って、怪物をぶら下げたまま飛び去って言った。
 説明に応じた彼は最後にこう言っていた。此方で設けた避難所はもう定員に達しており、これ以上人を引き受ける事は出来ない。他に避難所を設け、準備が整い次第また案内に来ると。
 俺と同じ様に感じた人は多かったに違いない。俺達は篩に掛けられている。生き残った者だけが、その先も生き続ける事が出来ると。だが、考え直してみれば病の流行が治まったとして、社会を失った我々が生き続けられるのだろうか、篩の下には擂り鉢が待っており、落ちなかった者は屑篭行きではないか。
 怪物の処理について煙に巻く事が目的と思われる餌撒きは終了し、人々は其れを薄々感じながらも、大人しく帰って行った。絶望が人々を殺してしまい、惰性と従来の慣習が行動させているのみだとすれば、彼らは患者と変わり無い。其れを俺が非難出来る筈も無い事は百も承知で、俺達も大人しく家に戻った。
 その日、怪物以外の患者を見る事は無かった。


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